我々の心は脳に宿る。
心臓ではないし、ましてやチム(肝臓)でもない。我々の喜びも悲しみも脳の所業であり、芸術も科学も、それらの総称である文化も文明も全て脳の産物である。 我々が物を見る時、それは脳を通して見ている。だから、我々が見ている物は物そのものではない。 見る対象は各人の脳によって修飾される。モジリアニー特有の長顔の人物画も、ゴッホのひまわりも彼らにはそうも見えたのだ。これは他の感覚器についても同様である。 世界は脳を通して認識されされる。認識に至る化学変化の過程は複雑で謎に満ちている。 この認識に遺伝子であるDNAが関与している事が最近分かってきた。 またしても遺伝子である。この前、進化の主人公は遺伝子であって、我々自身ではない。 我々は男も女も単なる遺伝子に操られている使い捨て(使用期間70年程度の)の乗り物にすぎないと知って驚いたばかりである。
今回もまた驚かされた。なぜなら、私は遺伝子はその生物の形状や特徴を決める設計図のようなものと理解していたのだが、実は設計図としての役割だけでなく、 日常の我々の認識や記憶にまで遺伝子が関与し続けていた事を知ったからである。これは我々が生まれながらにして物の見方が一人一人違うという事を意味する。まさか! いずにしろ、この様に脳の科学的手法による解明は哲学などの思弁による探索では及びもつかない人間理解を私達に与えてくれる。しかし、その理解も、まだ序の口だろう。脳研究は一筋縄ではいかない。はたして脳は脳を理解できるのか? 脳を知ろうとする事は無限の暗黒大陸に足を踏み入れることだ。それでも、研究者達が飽きることなく激しい情熱を注ぐのは、恐らく脳を知ることが”自分とは何か”という人類の根元的な疑問に答える事につながるからだろう。 現在、世界の脳の研究段階は物理学における18世紀と同等の段階にあると言われている。ただ、これまでの物理学がたどった歩みより、はるかに速いスピードで、その解明が進むだろう。コンピュータや分子生物学などあらゆる学問の成果がこの脳の解明に集中して注ぎ込まれる筈だ。そして、その解明の折々で我々は物理学やその他のどんな科学がかって我々に与えたよりもはるかに大きな衝撃を受けるだろう。 そして、その衝撃は結果として、我々に、これまでの我々の人間観や人生観の価値変容を迫るだろう。我々がそうした中で何を考えどの様に生きるのか興味は尽きない。