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沖縄とユダヤ人

日本語にあって英語にない言葉、英語にあって日本語にない言葉というものがある。 例えば甘えるという言葉は英語にはなく、アイデンティティーという英語は自然な日本語には存在しない。 辞書をひくとアイデンティティーを自己同一性などと訳しているが、この訳には若干無理が感じられる。

以前、外国を旅した時、政府の政策で、古来のライフスタイルを捨てさせられ、補助金で生活している小数民族をみた事があった。 ガイドの話しによるとアルコール依存症が多いらしく、人口も減り続けているとの事だった。彼らがたまに見せる古来の生活も観光用で、 アイデンティティーを奪われた小数民族の末路をみる様で、胸の痛い思いをした事がある。 一方、補助どころか、長い迫害の歴史を持ち、つい先の大戦でも600万人を虐殺されたユダヤ人は、この小数民族とはまるで逆で、 生きるに過酷な砂漠を豊かな緑地に変えるたくましさで、今でも世界のあらゆる分野に確たる影響力を持ち続けている。 この秘密は彼らの集まるところ、そこがどこであっても、タルムードというユダヤ人の生活規範を示した聖典があり、 ラビと呼ぶ司祭がいて、ユダヤ人のアイデンティティーを養う重要な役割をはたしているところにあるのではないだろうか。 つまり、民族を滅ぼすのも栄えさせるのも、このアイデンティティー次第という訳である。

そういう視点で沖縄を考えたとき、このアイデンティティーという言葉は、ユダヤ人同様に重要な意味を持っていると思う。 沖縄のマスコミや知識人が、他府県人には時として異様に思えるほど沖縄にこだわるのも、裏をかえせば、 それだけ沖縄のアイデンテイテイーの危機を感じているからであろうか。 これからの沖縄が存続し発展していく為には、ユダヤ人の生き方に学ぶ必要があるのではないかと思う。 即ち、ユダヤ人のタルムードやラビに相当するものが沖縄にとって何であるのか捜す中にその答えがあるのではないかと思う。

渕辺俊一著