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こんな地獄なら

おそるべき君等の乳房夏来る。その怖い夏も一飛びに、また師走。 暮れになっていつも思うことは1年の短さ。そして、こんな短い1年があと幾つ来れば・・・ と勘定するのも毎度のこと。ところで冒頭の句は俳人西東三鬼の作であるが、彼は火宅の人 であった。 多くの女性に愛される徳に恵まれ、それをさばく才に乏しい男は地獄を見る事になるようだ。 三鬼もまた、その苦しみを味わった1人であった。 彼が亡くなった時、彼の友人はこう弔辞を述べた。 (三鬼よ、ゆっくりお休み、もう女に気を使わなくていいよ。) ・・・しかし私は大いに気を使ってもいい。 地獄を見ていい。 三鬼の様にもててみたい。映画、失楽園の中でガンにおかされ余命幾ばくもない主人公の同僚が(燃えるよな恋もいたせず、枯れ野かな)と詠んだが、私はハッキリ言って嫌です。私は断然三鬼がいい。 それにしても、羨むほどの、あまたの恋に恵まれながら何故、地獄を見るのだろう。しかし、三鬼の場合、例え、それが地獄であったとしてもその経験が彼の俳風に深みを加えたのではないのか? 麗しき乳房を“おそるべき”と表現するなどその証左ではないか? 人生は跳び箱ではないのだ。 着地など気にする必要があるものか。 ただ飛べばよいのだ。 そして飛翔の歓びをかすめ取ればよいのだ。 それがどんな苦しみに変わろうと予期せぬ死が、生を中断し、全てを清算してくれる。 中断の姿が、どんな修羅場であろうと知るものか? しかし、待てよ、そんな勇ましいことを言って本当にそれで良いのか? 修羅に泣く愛すべき人達に一辺の配慮もないのか?と自問している内に、ジャスコに来る前の 敵は幾マンありとてもの意気込みはいつしか失せて、また、いつもの物憂い初老の男に戻ってしまった。 暁の夢の手枕、朝の雨

渕辺俊一著