我が家に水道が入ったのは私が小学校六年の時だった。
それまで離れの井戸から台所にある陶器の大カメに水を運ぶのは私と三つ上の兄の仕事だった。水道が入った日、母は一日中上機嫌で洗い物ばかりしていた。 裸電球から蛍光灯に変わったのもその頃で、三人の妹と蚊帳の中に敷いた布団の上を「光が白い!明るい!」と歓声をあげて転げ回った。
天皇陛下の御成婚の時、友達の家にもテレビが入ったのを知った私は母親の耳元で恐る恐る「テレビを買ってよ」とささやいた。すると母は「今なんちゅうたか?ゲンコツが欲しいてか?」と私の頭を叩く真似をした。 我が家にテレビが入ったのはそれから三年後、東京オリンピックの時だった。
当然白黒テレビだったが、当時、カラーテレビがある家はすぐ分かった。アンテナが鮮やかなカラーだったのだ。 後でカラーに機能的な意味は無く、ただ競争心を煽るためのものだと知った。
家に大事な客が来ると兄弟五人ふすまの陰で身じろぎみもせず、帰るや脱兎のごく客に出したわずかなお菓子に飛びついた。 妹の口の中に指をねじ込んで食べかけの菓子を奪ったこともある。
いつも腹をすかしていて、父のご飯の上にだけかける生卵が食べたくて「早く大人になろう」と思った事を覚えている。
あれも欲しい、これも欲しい。いつも何かを欲しがっていた。 そして、それは子供も大人も日本中が同じだった。その思いが今の日本を創ったのだ。
それが遠い記憶となった今、これから私達はどこへ向かうのだろう。