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人の残虐性について(下)

先日、ひょんな事から昭和6年から16年にかけての本土の大新聞を読む機会に恵まれた。満州事変から太平洋戦争に至る抜粋である。 その紙面は全面、戦争一色で、戦意を駆り立てる記事で埋め尽くされていた。私が興味を持ったのは、その戦意高揚の文面のあちこちで正義という言葉が異様に目に付いた事である。
例えば、「米なほ正義に目覚めず」とか「世界に示す正義の本城」とかで、この論調は他の大新聞も同様であった。当然というか、戦後、大新聞は猛省した。いや、猛省する余り、逆へ振れすぎる新聞が続出した。そして過去を省みること坊主憎けりゃ袈裟まで憎い式になった。何のことはない戦前の正義は平和という言葉に変わっただけで、異論を圧倒する姿勢は昔と同じである。
そうした姿勢が行きすぎると、人々が何かおかしいと感じても、あたりを伺ってヒソヒソと話すようになる。正義や平和には誰も逆らえない。 こうして異論が潜むと、論調は更に過激になり、アッという間に空気が変わる。

1930年9月のドイツ連邦選挙で第一党となり、ヒットラーを首相に任命した。それから1年もしないうちに、ドイツは完全にヒットラーに、乗っ取られてしまったのである。まさにアレヨアレヨという間の出来事であった。その後の惨状はご承知の通りである。 かつて、日本のマスコミも正義の名の下に異端者を裁く法廷であり、踏み絵の場となった時期があった。我々は、平和の名の下にその愚を再び犯してはならない。

前号で紹介したエール大学の実験は教えている。「人は我々の想像をはるかに越えて残虐であり、しかも、それに民族差はない。ただし、この残虐性が発揮されるのには条件がある。それは残虐行為を正当化する神や高尚な大義が絶対性を持ち異論を許さない一辺倒の雰囲気が出てきたときこそ平和にとって、要注意である」と。

渕辺俊一著