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人の残虐性について(中)

前号で紹介したエール大学の実験は、大義名分さえ与えれば人は容易に残虐性を発揮するというものであった。この実験結果は、十七世紀のフランスの思想家パスカルが主著『パンセ』の中で述べた「人々は神の名の元において平気で残虐な行為をする。」という言葉と見事に一致する。私がこの実験で驚くのは、二つある。
一つは残虐さを示す数値が、我々の予想を遥かに越えている事である。 精神医などの専門家ですら1000人に1名ぐらいの病的な人間が最高圧である450ボルトのスイッチを被験者が激痛を訴えるにも関わらず押すだろうと予測した。しかし、実際は何と1000人中、650人から850人もの大半の人々が押したのだから驚くのも無理はない。事実と認識の間にこれだけの差がある例も珍しい。
二つ目は、残虐さを示す数値が民族や国家に関係なく近似値を示しているという事実である。確かに、過去をさかのぼれば恥ずべき残酷な歴史を持たない国家や民族はない。

平和を愛好する沖縄も、その例外ではない。三山統一や、先島侵略の過程は、歴史上の侵略国家のそれと似通っており、その間発揮された残虐性も、国家のサイズを勘案すれば何ら遜色はない。どの民族も残虐性において他の民族を批判する資格はないのだ。そういう意味において、この実験は、歴史の教えるところとも一致する。
ところで、大義名分は人間の残虐性を解放するというが、私は、逆の見方も出来るのではないかと思う。すなわち、人間は、その残虐性を解放したいが為、大義名分を無意識に求めるという事である。
イギリスの思想家バートランド・ラッセルは「退屈も戦争を生む。」と、その著書で述べている。生きる目標を見失い退屈な日常を生きる人々が増えたとき、民族の優越性とか分離独立とかの大義名分を巧妙に唱える人物が登場すると、人々は、その言辞に酔い、あっという間に絶対権力を与えてしまう傾向がある。そうした民衆の深層心理の中に残虐性解放の期待が潜んでいると思うのは考えすぎだろうか。

いずれにしろ我々はこうした実験結果を踏まえた上で、自らの思想や信条を形成せねばならない。古今東西、皮肉な事に戦争は自国民にとって常に平和を求める正義の戦争であった。戦争に勝利する為には意見を統一し、異なった意見を排除せねばばらない。 そこで、同調性という名の宗教が大手を振るい、異なった意見を持つ人間を異端者として迫害する様になる。その際に正義や平和などの美辞麗句が残虐行為の口実に使われる。従って、正義や平和が大手を振るって異なった意見が通らない雰囲気が出てきたときこそ平和にとって要注意である。
私は、こうした傾向の救いは多様性にこそ求められると思う。生物界における種の存続や進化に種の多様性が貢献する様に、真の平和の存続にも異なった多様な意見の許容が不可欠である。そういう意味においてマスコミの担う役割は大きい。

渕辺俊一著