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心はいつも下心

前号で、年取ってから真面目になるのは嫌だと書いた。 なぜなら、その種の真面目は生命力の衰弱からもたらされるもので、そんなもので、 (トッテモ真面目な人ですね)と 誉められてもチットモ嬉しくないからである。職は奪われ、することもなく、妻に疎んぜられる日々。 昔日の官能の疼きも、いつしか影を潜め、(とってもいいおじさんですね)と何の警戒心も抱かれぬ寂しさ。 人は一度に死ぬのではない。少しずつ死んでいくのだという思いが胸を突く。
毒にもならず薬にもならず、ただただ、立ち枯れて、消えていくのを待つ日々か。 ああ、すけべの頃がなつかしい。そこで、このまま果ててなるものかと一念奮発、人生最後の勝負に出ることにした。 さて、何をするか?! まず、歯を修繕し、髪を染めてフェロモンの香りを身に漂わそう。 そして、服のセンスも磨かねばならぬ。人間、まずは外見なのだ。女性の視界にも入らぬようでは、話にならない。 それより、何より、まず体を鍛えねばならない。 いざ鎌倉の時、役立たずでは、それこそ、目も当てられぬ。
そして、用意が整ったら、努力の跡をさりげなく隠して、狩に出るのだ。 狩場として、俳句、短歌、習字、詩吟、三味線、コ-ラス、社交ダンスなどの同好会が頭に浮かぶ。こういう場所には奥ゆかしい魅力的な女性が一杯いそうだから。 しかし、ふと、己の下心を省みると、罰当たりな気がして、気後れどころか足のすくむ思い。そこを、 (♪幸せは歩いてこない。だから歩いて行くんだね。♪)と見当違いな歌の文句で励まして、まずは外見から変身しようと小禄のジャスコにショッピングと決め込んだ。

渕辺俊一著