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終わりに

人間の動物としての生理が変わらない以上、それに基づく心理が、そう遠くへ行く筈がない。であれば、どんなに科学技術の発展が新しい世界を約束しても、それが人間の心理に合わなければ、それを人間の側から拒否するから、常に人間のライフスタイルは現在とさほど変わらない。 例え、一時的に変わる様に見えてもそれが人間の心理とかけ離れたものであれば、無理に引っ張られたゴムの様に又、すぐに元に戻る筈だという考え方がある。

実際、我々が大勢の人を前にしてスピーチする時、”あがる”心理にしても敵に遭遇した時、闘争か、あるいは逃走かという何百万年も前から続いてきたアドレナリン分泌などによる肉体の生理的変化を今だに踏襲している事実を思うと確かに説得力のある説ではある。 しかし、本当に未来永劫人間の心理は変化しないのであろうか?今まで何百万年の間、発現の機会を得られていなかった人間の新しい心理的可能性というのが潜在的に備わっていて、それが未来の科学技術によって引き出されるという事はないのだろうか? 例えば、今まで植物には、その生育に土が絶対必要であり、土を離れて農業はないと言われてきた。 パールバックが中国を舞台にして著した不朽の名作”大地”でも描いたように土と農民はポエティックなまでに不可分の関係であった。少なくともそういう風に我々は長年思い込まされてきた。しかし、その土が植物の生育に役立つどころか、むしろ成長の可能性を阻害しているかも知れない。という考え方が出てきた時、誰もがまさか思った筈である。しかし、現にトマトの普通の苗木が水耕栽培によって見たこともないような大木に成長し何万個の実をつけるのを見た時、それまで抱いていた土への思い込みは衝撃とともに崩れたのである。この様に、生物には、その生物誕生以来、一度も発現の機会を与えられなかった可能性といいうものがあるのではなかろうか?私は、人間にもこの可能性があると思う。私は、ハイポニカ農法が我々の植物に対する固定概念を覆した様に、近い将来、我々人類に対する固定概念がコンピュータネットワーク社会の進展によって覆される様な気がするのである。予感に近いものではあるが、それには全く根拠がないわけではない。紙面の都合で割愛するが、いずれ機会があれば、詳しくそれを書きたいと思う。いずれにしろ、今まで述べてきた色々な変化は、ある大きな変化へと収束していくかの様に思える。その大きな変化とは、人類の意識が高度情報化社会の進展につれて、内向化するのではないかという事である。しかし、この内向は必ずしも暗い性格になるという意味ではない。むしろ、哲学的あるいは宗教的な傾向が強まると言い替えてもよい。理由のひとつとしてはマズローの人間発達の5段階にもヒントを得ることが出来る。彼の人間の心理発達の5段階とは三角形の山で表現されている。一番底辺に生理的欲求の層があり、上へ向かって安全、承認と続き自己主張の段階を経て最後に自己実現の層で終わる。彼は人間はある段階の欲求に満足を覚えたら、その段階への興味を薄れさせ次の上の層へ関心を移していくと言う。 その説でいくと、生存や安全の段階は軽くクリアーした高度情報化社会に生きる人々は、双方向のコンピュータネットワークにより自己主張や自己実現の機会を充分に得られるから、大衆レベルで、こぞって自己実現のレベルへと関心を移す筈である。つまり、物や安全を求めて右往左往する必要もなくなり、また認められたくて俺が俺がと我を張る必要もなくなるという訳である。こうした世界は、自己の内面を見つめるフィロソフィーの世界である。こうした世界は静かで、当然内向するが、暗く沈み込む内向ではなく、砥澄まされた”静ひつな”世界というのがふさわしい。例えて言えば、底辺の生存欲求の段階にあるのが闇市の騒々しさだとすれば、自己実現の段階は北欧の静かな町のたたずまいと言えるだろうか。また、その”静ひつさ”とは日光東照宮お豪華絢爛な静かさではなく桂離宮の簡素さに見られる”清ひつさ”と言えるだろうか。表現は難しいが、いずれにしても、表面は静かな姿勢になるが、その外部世界に対する影響力は、途方もなく大きい世界である。いや、その大きな力によってこそ可能となった静かな世界である。もちろん、この大きな力の源泉がコンピュータネットワークにある事は言うまでもない。その世界では人間の関心事は芸術や哲学或いは科学的心理の探求へと向かうだろう。そこでは、”どうして他人は自分ではないのか”というような一見、奇異なテーマがあらゆる領域から真剣に検討されるのかも知れない。あるいは空想的未来社会の項で述べた様なことの実現に静かな情熱を燃やし続けるだろう。そして、そうした情熱の成果としての衝撃的な変革は必然的に、我々人類に価値変容を迫るから、ますます人類は思索的あるいは内向的傾向を強めるだろう。

最後になるが、こうした社会に対する反動は常に予測される。高度情報化社会の恩恵を家に篭ってフルに味わう新オタク族を、そうした社会の落し子とするならば、その対局として、そうした恩恵を人間の感性を蝕むものとして一切拒否し、不便であっても生の人間関係のみを重視する人々も同時に増えるだろう。 しかし、大方の人々は、そうした動きの狭間にあって、高度情報化社会に自然と慣らされていくだろう。 人々は、そうした社会で何を考え、どの様に生きるのか興味は尽きない。

渕辺俊一著