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永遠のふるさと

幼児(あかんぼ)に洗面器を渡すと、用途は自在でとらわれがない。 太鼓のように叩いたり、帽子のように被ったりしたかと思うと、車輪のように転がしたり、乗物のように座ったりしてよどむことがない。 万事この調子で、あかんぼには、言葉がないから純粋体験のみで解釈をするという事がない。 無心に笑い無心に泣く。完璧に無力でありながら、ある意味、最弱にして最強! 母親を意のままに操る人智を越える無垢な力は最愛の亭主もはるかに及ぶところではない。

過去も未来もなく、従って悔やむことも憂えることもなく、自他の区別どころか自分という意識もない。 あかんぼはこうした無我の楽園に住み、それぞれ異なる空間にふるさとを持つ我々人類の唯一共通の「時のふるさと」なのだ。

例えば長年、実家に息子夫婦と暮らしながら、夕暮れになると「ここは、私の家ではない。今から家に帰る!」と 駄々をこねる夕暮れ症候群のお年寄りが本当に帰りたいところも、我々が欲する究極の旅先も実は、具体的にどこかへ行く事ではなく、 あかんぼの住む「時のふるさと(楽園)」に戻ることではないのか、だから、そこが何処であろうと、 もし、あかんぼが見るように見、感じるように感じることが出来れば、 そこがそのまま懐かしくも未知の愛と喜びに包まれた我々人類共通の永遠のふるさとなのだと思う。

夭逝の詩人 八木重吉にこういう詩がある。

息を ころせ、いきを ころせ あかんぼが空を みる ああ 空を みる。

渕辺俊一著