情報自体には臭いも、重さも大きさもない。従って、いくらか蓄積しても、それが電子情報の型を取る限りにおいては、たいして場所もとらない上に、いくらか流通させても消える事もない。こうした情報を運ぶのには石油もいらず、従って公害も出さない。こうした情報は電子や光の速さで瞬時に世界を駆け巡り、映像や音声あるいは文字情報に変換される。通信システムの高度に発達した高度情報化社会では、今まで述べてきた様に人々の生活が、この情報を消費する事によって満足を得る傾向が増大する。野外より室内に魅力を感じる人々が現在よりはるかに増えて、人々は余り出歩かなくなるかも知れない。また、精神的価値を重視する様になる為、物欲も薄れて資源の大量消費に馴染まないライフスタイルとなろう。工場の生産も高度なコンピュータ管理で製品ロスやエネルギーロスが極端に減り、全産業に渡って省資源、省エネルギーが徹底される。新聞や本などの活字メディアも、現在ではその一覧性や読み易さ及び再読性が受けて人気を失っていないが、それも時間の問題の様な気がする。一覧性があって、自由に文字の大きさを選択出来る上に寝転がっても読める超軽量ハイビジョンの電子メディアが登場したら、その存在意義を真剣に問われるだろう。しかも、その電子メディアに書店や図書館に行かずとも、いつでも好きなとき好きな場所で希望の新聞や本を呼び出せるとしたら、あるいは外国語の書籍でもたちまち翻訳して出してくれるとしたら、また、読み疲れた時、美しい声で代わりに読んでくれたとしたら、それでも従来の活字メディアに頼るだろうか?すなわち、活字メディアの持つ便利さをすべて補った上で、活字メディアでは到底真似の出来ない便利さを持った電子メディアが登場すれば勝負は目に見えている。そうなると書店や新聞配達は役目を失って消え去る一方、新聞や図書に使用されていた木材資源は、その分伐採を免れることになるだろう。実際に、その可能性は充分にある。コンピュータネットワークの発達は、国会図書館クラスの膨大な蔵書や世界中の新聞を、個人用の手軽な電子メディアに瞬時に送り込んでくれる事を可能にする。こうして消費される電子が必要とするエネルギーは、新聞や本を作り、読者の手元に渡るまで消費される木材資源や化石燃料に比べると極めて小さいものである。
従って、電子のやりとりで満足する社会は、地球環境には優しい社会であると言えるのではないだろうか。