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幸せの方角

鎖国の為、自給自足を余儀なくされた江戸時代、国土が養えるギリギリの人口は3千万人だった。この人口を越えないために、 当時の人々は赤ちゃんを川に流し、老人を山に捨てた。桃太郎の話も、赤ちゃんを川に捨てた人々の悲哀が作り上げたものだと言う。 江戸が終わり明治になると人口は爆発した。300年近く変わらなかった3000万の人口が、わずか70年余りで7000万人になり、 それから50年余りで1億3千万人に急増した。 急増の理由は鎖国を解き、貿易を始めた事にある。 数億トンの原料を外国から仕入れ、それを数千万トンの製品にして輸出する。 その商売の差益で余剰の1億を養った。 この仕掛けが壊れたら、未曾有の大惨事になる。前大戦における日本の開戦理由の一つに、この惨事への恐怖があったことは間違いない。 だから、日本にとってこの仕掛けを保証する平和は、道義的な目標と言うよりまさに生命線なのだ。 日本が世界の平和に投資することは自分を守ることだと認識する必要がある。

しかし、平和が前提にはなるものの、この仕掛の維持発展に、最も必要なことは、世界が求めるパーツや製品を作り続けなければならない事である。 その為には日本の社会全体を、生産性の高い効率的な社会にしなければならない。 事実、日本はこうした意味でも世界で最も成功した国の一つになった。しかし、皮肉なことに、誰もが信じた幸せの方向に今、疑問が生じている。 例えば、私が小さい頃、人は家で生まれ、家で死んだ。町には工場も問屋も商店も雑然と同居し、老人も子供も金持ちも貧乏人も優等生も知的障害児も一緒に住んでいた。 家も町もチャンプルーだったのだ。しかし、いつ頃からか、家や町の機能は整理され始めた。 まず人は、病院で生まれ病院で死ぬようになった。老人や知的障害児も家から郊外の施設へ移された。 同様に、工場は工業団地に、問屋は流通団地へ、商店は商業地にある巨大スーパーに飲み込まれた。 その傾向に拍車はかかっても、異議を唱える人はいない。何故なら、それが安全で効率的な道だと信じているからである。 しかし、一方で、家や町から暖かさや個性が失われ、どこもかしこも似たような無機質で退屈な風景に塗りつぶされていった。

世の中が何だか幸せの薄い方向へ進んでいる気がする。

私は今から2000年ほど前の中国の思想家荘子の奇妙な寓話を思い出した。あるところに混沌(こんとん)という人がいた。 非常に徳のある人で誰からも好かれた。しかし、彼の顔は”のっぺらぼう”で目も鼻も口もなかった。人々は可哀想にと思い、彼の顔に目と口を穿ち、 鼻と耳を作ってやった。暫くして立派な顔が出来上がった。人々は喜んだ。しかし、不思議なことに顔が出来上がった日に混沌は死んでしまった。 話はこれだけであるが、混沌を沖縄に善意の人々を本土に例えれば見えてくるものがある。いずれにしろ、荘子がこの寓話で伝えたかった事は、 2000年の時空を超えた今も、新鮮さを失わないどころか、まさに現代文明の行く末を予言している様で不気味である。

渕辺俊一著