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いかがわしさ

官僚のノーパンシャブシャブからクリントンの不倫疑惑まで、昨今ほど指導者と言われる人々の 『いかがわしさ』が話題になった時はない。そういう意味において、指導者につきまとう学歴や地位、職業、家柄などの属性が、その価値を大幅に下げる世紀末となった。 今年は、こうした属性が威力を失い、本当の実力や人間性が評価される時代の幕開けとなろう。こういう時代、人は美談を求めるようになる。

美談の本質は自己犠牲であり、これは、どの国でも美徳とされる。凍てつくポトマック川に墜落した飛行機の乗客を橋から飛び込んで救った男は、 その勇敢な行為が、美談として全世界に放映される。映画史上空前のヒットを飛ばした映画タイタニックでも、どの部分に感動したかを語り合うと、 それが大方、自己犠牲のシーンであった事で一致する。このように自己犠牲を伴う美談は、人の心を大きく動かす。それ故か、美談は時に、誇張され、ねつ造される。 戦争中には、国民を戦争に駆り立てる為に、自己犠牲が美談仕立てで奨励される。戦争でなくても、全体主義や共産主義の世界では、 自己犠牲を払った人間を英雄に見立て盛んに讃える。讃えるあまり歌になり、甚だしくは神になる。 しかし、自己犠牲を強要する社会は、 不幸な時代だったと後で気づく。我々にとって直視しなければならない、重要な事は、大方の人間は自己犠牲を嫌い、ポトマック川に飛び込まないという事実である。 我々の大半は、(小人閑居して不善を為す。)式の結構『いかがわしい』小人(しょうじん)なのだという前提にたつ必要がある。 その前提で、組織も社会も構築されなければ、悔しいけれど、我々は裏切られ、痛い目に遭う事を歴史は教えている。

以前、ソ連と米国の市民100人が衛生中継でい議論するのを見たことがある。テーマはどちらの体制が優れているかという趣旨であったように思う。 討論が始まると、どちらの国も論客を揃えたのか、自国の体制の素晴らしさを主張し、相手の体制の矛盾を突いた。 議論は伯仲し、決着がつかない状況が展開したが、ある米国青年の登場で勝負はついた。その青年は、確か、こう言ったのである。 (私達人間は過ちを犯す動物です。従って、その人間が作る政府も当然間違いを犯す可能性があります。 しかし、その過ちが許せないと思ったら、国民は、その政府を即座に選挙で変えることが出来ますが、あなた達の国ではどうなのですか?)その質問にソ連市民は、こう答えた。 (我々は、政府も指導者も信頼している。我々が信頼している政府や指導者は我々を正しく導き、間違うことはない。)と、 この答えが真実でなかったことは、数年後に彼ら自身が身をもって体験することになる。絶対権力は絶対に腐敗する。 計画経済が市場経済に破れ、労働者階級独裁が一部の権力者の独裁に終わったのも、すべてこの『人間性のいかがわしさ』を洞察しなかったことに起因すると私は思う。 (「生きているんだものインチキやっているに決まっているさ」と言った太宰治がなつかしく思い出される。)

渕辺俊一著